鶴田天龍vs長州谷津〜1986 インタータッグ2連戦 全日本対ジャパン 頂上対決

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プロレス
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昭和プロレス名勝負。新日本プロレス大量離脱で誕生した長州力率いるジャパンプロレスと、全日本プロレスの軍団抗争は、1986(昭和61)年初頭、鶴田&天龍と長州&谷津がインタータッグ2連戦でピークを迎えていました。

 

今回は天龍革命、四天王プロレスの源流とも言える、“全日本プロレスを変えた“エポック的な名勝負、鶴龍vs長州谷津のインタータッグ 東京&札幌2連戦 をご紹介します!


 

●対戦までの流れ〜“ジャパンが圧倒“からの変化

 

1984(昭和59)年10月から全日本プロレスに登場した長州力率いるジャパン プロレスは当初、圧倒的な人気と勢いで全日マットを席巻しました。体格では190センチ越えの鶴田、天龍を擁する全日プロ勢が有利なのですが、当初、鶴田は対抗戦にはほとんど顔を出さず、天龍、石川らが矢面に立っていました。

 

また、気迫溢れるトリッキーなスタイルと、キレとスピードのある(俗に言うハイスパート スタイル)ジャパン勢の方が、見た目に「強く」見え、受けのスタイルでゆったり、どっしり構える全日勢は損。そのため、会場人気もマスコミからの視線も、長州らジャパン勢が圧倒していました。

 

その潮目が変わったのが、1985(昭和60)年11月、大阪城ホールで行われた長州 力vsジャンボ鶴田戦。結果は60分フルタイム ドローでしたが、長州が鶴田のスケールとテンポに飲み込まれて良さが出せず、鶴田との圧倒的な体格差と、底なしのスタミナだけが印象に残りました。

また、年末の掉尾を飾る「’85 世界最強タッグリーグ戦」では、長州は谷津と組み初出場。最終戦でスタン ハンセン&テッド デビアス組と引き分けに終わり、優勝を逃します(ハンセン組の優勝)。

 

そして翌1986(昭和61)年。長州&谷津に、全日マットで初のタイトル獲得のチャンスが巡って来ました。当時、ジャンボ鶴田と天龍源一郎が保持する全日本プロレスの最高峰、インターナショナル タッグ選手権への挑戦が決定したのです。

 


 

●鶴田覚醒?加熱する前哨戦2大会

 

1986(昭和61)年1月、タイトルマッチ2週前の放送は、鹿児島大会。

ジャンボ鶴田&石川隆士vs長州力&寺西勇の「前哨戦」が組まれます。

 

長州&谷津のインタータッグ初戴冠の期待が高まる中、なんと鶴田組が意表を突き、試合開始前の強襲を敢行します。2人がかりでジャパンのお株を奪う場外でのハイジャック パイルドライバーなどを見せ、長州は大流血、鶴田のイス攻撃で脇腹も負傷して病院送りになる大ハプニング!(倉持アナ調)。急遽、試合後の谷津が代打(裸足)で対戦しますが、鶴田軍が圧倒(結果は鶴田の反則負け)。

 

翌週は高崎大会。

長州は浜口と組み、鶴田&石川組に報復せんと序盤から猛攻を仕掛けますが、またもや鶴田が大暴れして反則負け。長州の負傷箇所を滅多打ちして、谷津と天龍も加わり、またもや大荒れに終わります。

 


 

●前哨戦で遺恨勃発、決着戦へ

 

ジャンボ鶴田はここまで、ジャパンとの抗争は天龍に任せて、一歩引いた印象でしたが、この年明けから突然やる気スイッチ全開で「覚醒」。圧倒的な体格差を活かして、後の「怪物」的な強さを「解禁」。それまでの「ゆっくリズム」の鶴田スタイルとは違う大暴れに、ファンは驚きました。

 

ともかく、2週に渡る中継で両軍の遺恨が極限まで高まる中、いよいよ東京と札幌のタイトルマッチ2連戦で決着…この流れこそ、「まさにプロレス」の見本のような展開。こうした遺恨ストーリーも、当時の全日本プロレスでは珍しい展開でした。

 


 

●東京決戦

 

そして東京決戦。改装前の最後の旧 東京体育館の試合です。

1986(昭和61)年1月28日 東京体育館
インターナショナル タッグ選手権試合
ジャンボ鶴田、天龍源一郎vs長州 力、谷津嘉章

 

脇腹に大きなテーピングで臨む手負いの長州が試合前に「この試合でオレ達を潰さないと、オマエら後悔するぞ」という名マイク アピール。

そしてこの試合、4人の気迫と会場の盛り上がりが凄まじい名勝負となります。

 

先発は鶴田と長州。序盤から一発一発、エグい攻撃で、天龍、谷津もひとつも遊びワザがありません。4人による22分間ノンストップのハードヒット マッチに場内のボルテージは一度も下がることなく「轟々たる声援」(倉持アナ調)が続きます。

 

ちなみに倉持アナは長州の脇腹に巻かれたテーピングを「ばんそうこう」と連呼。試合がいかに緊迫感に溢れても、実況は変わらぬ微笑ましいズンドコぶり。このミスマッチが、「全日本プロレス中継」の魅力です(適当)。

 

負傷した脇腹に鶴田の猛烈なストンピングを浴びながらも、決して後ろに下がることなく前へ前へと奮戦する長州の鬼気迫る姿勢も素晴らしいですが、なんといってもこの試合、巨漢の鶴龍相手に孤軍奮闘する谷津が素晴らしい。谷津がこんなに声援を受けるのは、この時期くらいかもしれません(笑)。

 

結果は、天龍がその谷津をパワーボムでピンフォール、タイトル防衛。

 

試合後、谷津は天龍に怒りのマイク アピール。例によって何を言ってるのかサッパリわかりません(笑)が、鶴田と天龍に加えて、谷津と天龍の遺恨が深まりました。

 


 

●札幌決戦

 

1986(昭和61)年2月5日 東京体育館
インターナショナル タッグ選手権試合
ジャンボ鶴田、天龍源一郎vs長州 力、谷津嘉章

 

1週間後、極寒の札幌での再戦。ちなみにこの雪まつり時期の札幌中島興業はかつての新日本プロレスの名物でしたが、大塚直樹氏のプロモートが全日本プロレスに移り、奪われた、という「因縁」もありました。

 

当然、脇腹の負傷の癒えない長州はテーピングしたままで、さらに東京決戦で天龍は右手首にヒビが入り、谷津は気管支炎五体満足なのは鶴田のみです(怪物)。

この再戦では特に天龍と谷津が感情剥き出しでケンカ腰のやり合い。天龍は右手首負傷のため得意のチョップが使えないハンデがありましたが、谷津がドロップキック、スープレックスと大活躍を見せます。

 

そして決着は、その谷津が天龍にジャーマンを仕掛け、ロープ際で堪える天龍に長州がエプロンからのリキラリアット。谷津がすかさずジャーマンを決め、天龍から殊勲のピンフォール。

 

長州&谷津は全日マットで初戴冠、第35代インタータッグ チャンピオンになりました。試合後、珍しく笑顔で谷津を讃える長州が印象的でした。

 


 

●1年後に天龍がリベンジ

 

長州&谷津組はここから1年間、8度の防衛を続けますが、ちょうど1年後の1987(昭和62)年2月5日、場所も同じ札幌中島体育会館で、鶴龍コンビにタイトルを奪還されました。

しかもこの試合、天龍は意地のジャーマン スープレックスを谷津に放って勝つ、という執念のリベンジ。

そして長州は、この試合を最後に全日本マットを離れ、新日本プロレスへUターンしていくのでした。

 


 

●この2連戦の意義

 

改めて、この頂上対決 2連戦は、鶴田がその怪物的な強さを解禁し始めた、という点と、谷津が格上の3人と肩を並べるまでに成長した出世試合。解説席のジャイアント馬場さんも2試合ともに「この1年の谷津の成長は素晴らしいですね」とコメントしていて、この評価が、後の鶴田との五輪コンビ結成につながったのだと思います。

 

この1986(昭和61)年当時、天龍が36歳、鶴田と長州が35歳、谷津は30歳。この後、この4人は4者4様のプロレスラー人生を送るワケで、その視点からも実に面白い、このタイミングならでは、の名勝負でした。

 

そして、この抗争は、確実に全日本プロレスの風景を変えました。日本人同士によるハードヒット、ノンストップ バトルはそれまでの全日本プロレスのオーソドックス、スローテンポの戦い模様とは一線を画した“変化“であり、盛り上がり、観客の熱狂ぶりも同様です。

 

また、「反則」や「両者リングアウト」などの不透明決着を廃して、2試合共に完全決着をみた、というのも、当時の全日本プロレスとしては画期的な出来事でした。

 

その意味でこの4者による頂上決戦は、後の天龍革命、そして四天王プロレスによる90年代の“全日本プロレス ブーム“の源流、エポック メイキングな試合と言えるのです。

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