今回は、新日プロ「クーデター事件」の翌1984(昭和59)年に起こった、「大量離脱事件」についてです。
事件ばっかりじゃないか!…って、そうなのです。昭和の猪木・新日プロはとにかく激震してないと新日じゃない、ってくらいに、次から次に大事件が起こっていたのです。
そしてその離脱で誕生した、長州力率いる「ジャパンプロレス」についても掘り下げ、解説します!
<参考文献>
Gスピリッツ(辰巳出版)Vol.47「ジャパンプロレス」
大塚直樹著「クーデター」(宝島社)
週刊プロレススペシャル4「猪木毒本」 ほか
新日本プロレス興行と猪木とのスキマ風
1983(昭和58)年夏のクーデター事件後、新日本プロレスの営業部長だった大塚直樹氏は、当初の計画通り新日プロを退社。年末に、猪木から社名を譲り受けるカタチで 「新日本プロレス興行」を設立しました。
新会社はその名の通り、新日本プロレスの東京・大阪の大会場のチケット販売と、北海道と四国地区の興行を仕切る、興行プロモート契約を結びます。
しかし、もともと大塚氏としてはさまざまな興行、イベントをプロモートする事が夢で、「将来的には純粋な興行会社として(新日本と名称が入っていても)、他団体の興行でも請け負う」という狙いがありました。
一方、新日プロサイドはあくまで「暖簾分けした兄弟会社」という認識で、特に猪木との関係は、クーデター事件以降、互いに微妙になっていました。
1984(昭和59)年1月、大塚氏は新会社の設立パーティーを催しますが、「参加する」と言っていた猪木は欠席。そして2月の札幌中島センターでの「藤原テロ事件」で、その不信感はさらに高まりました。
この興行は大塚氏の新会社がプロモートする大会。そのメインカード(試合順はセミ前)である長州vs藤波戦をブチ壊されたことで、大塚氏は「社長(猪木)が興行を壊し、新会社に協力するどころか、弱体化させようとしているのではないか?」と感じます。
>この辺り、詳しくはコチラ
しかしこの段階では、大塚氏は新会社が軌道に乗るまでは、新日本プロレスと決裂するのはマズイと考えていました。
そしてその時期、同じくクーデター事件で新日本プロレスを追われる形となった新間寿・元営業本部長が「新団体旗揚げを画策している」との情報が流れ始めます。
新間氏の新団体「U.W.F.」
新間氏が新たに立ち上げようとしていたUWFについては、別記事で詳しく解説していますのでここでは省きますが、重要なのはこの時、大塚氏は新日本プロレスとテレビ朝日に助言して、新間氏の「選手引き抜き工作に対する防止策」として、長州ら人気選手との専属契約を結ぶ手助けを行っていることです。
1984年3月、東京福生大会の試合前。大塚氏は自ら用意した3,500万円を使い、長州力、藤波辰巳、アニマル浜口、小林邦昭ら主要選手と、「テレビ朝日以外の局に出演できない」という専属契約を結び、囲い込みを行います(契約金は後にテレビ朝日から大塚氏に返金)。
この時点では大塚氏はあくまでも、新日本プロレスとの業務提携をメインに新会社を運営するつもりだったのです。
結局、新間氏の新団体UWFにアントニオ猪木は参加せず、噂されたフジテレビでの放映も中止。
新間氏はその責任を取る形でUWFを離脱しますが、その裏で新日本プロレスとの業務提携で生き残りを狙う新間氏と、あくまで独立団体として歩みたいUWFフロントサイドの思惑が入り混じり、「決裂」していたのが真相です。
>この辺りの詳細はコチラ
大塚氏、ジャイアント馬場と接触
新間氏の興したUWFが「新日本プロレスとの提携」か「独立」かで揺れている中、大塚氏はある人物を通じて、「ジャイアント馬場と会わないか」との誘いを受けます。
その人物とは、ゴング誌編集長の竹内宏介氏。
大塚氏によれば、新間氏の退陣会見から5日後、5月26日に竹内氏から電話で「大塚さん、新日本興行は新日本プロレス以外の興行も手がけるというのは本当ですか?」と聞かれ、大塚氏が「そうです」と答えると「馬場さんと話をしてみる気はありますか?」と言われ、翌日にキャピタル東急ホテルで2人で会うよう、セッティングされたとのこと。
そして翌日、大塚氏はジャイアント馬場と1対1での対面を果たします。
ジャイアント馬場は大塚氏に会うなり開口一番、「あなたがねぇ、一番嫌いな人だったんだよ」。裏を返せば、ライバルである全日本プロレスを蹴散らしてでも新日のチケットを売りまくる大塚氏の手腕を高く買っていた、ということです。
そして馬場は大塚氏に「できる範囲でいいから、ウチの興行を買って欲しい」。
話はトントン拍子に進み、6月2日には当時全日本プロレス社長の松根氏を交え、3人で会談。
新日本プロレスとエリアが重複しない九州と東北地区を新日本プロレス興行がプロモートすること、6月22日に業務提携の記者会見を開くこと、そして8月26日の東京・田園コロシアム大会をプロモートすることが電撃決定しました。
8.26 2代目タイガーマスク デビュー!
当然この動きに慌てたのが、新日本プロレスでした。大塚氏に電話をかけてきたのは副社長に復帰していた坂口征二。坂口は大塚氏に「頼むから会見だけはやめてくれよ」と頼みますが、大塚氏は「自分の一存では決められません」と拒否。
坂口はこの後、馬場宅にも電話を入れたそうですが、元子夫人に取り次いでもらえなかったそうで、大塚氏はこの一連の中で「これも運命」と腹を括ります。
そして1984(昭和59)年6月22日、新日本プロレス興行は、全日本プロレスとの業務提携を発表。
提携第一弾として、8月26日に行われる全日プロ 田園コロシアム大会を手がけることを発表します。この会場はもともと、新日本プロレスの興行用に大塚氏が押さえていたものでした。
この大会の最大の目玉は「2代目タイガーマスク(三沢光晴)デビュー」。これは大塚氏が実現させた企画です。
業務契約の締結後、大塚氏は馬場から「タイガーが2,500万円で売り込みに来ている」と聞かされますが、売り込み元が本人(佐山サトル)ではなく代理人(ショウジ・コンチャ)であると聞かされ、「やめた方がいいですよ」と助言。代わりに新たなタイガーマスクを作る、というプランを持ち掛けます。
大塚氏はタイガーマスクの原作者、梶原一騎邸に1か月間毎週訪問し、前向きな返答をもらいます。梶原氏の条件は「契約金は一切要らない。条件は2つ。士道館の有望な若手を、2代目の弟分として育てること。もう1つは、馬場本人が、私に頼みに来て欲しい。」
そしてジャイアント馬場は自ら梶原宅を訪問し、2代目誕生が決定しました。
大塚氏はそれ以前に猪木にも「2代目タイガーマスクを作ってはどうか」と提案していたものの、猪木は乗り気ではなかったようです。梶原一騎氏との関係に懲りていた事に加え、佐山、新間氏なしでのタイガーマスクは考えられず、二番煎じを嫌う猪木としては当然でした(かといってコブラはどうかと思いますが…笑)。
しかし、ライバル団体の全日プロがやるとなると話は違います。大塚氏は新日サイドに呼ばれ話し合いを持ちますが交渉は決裂。
そして大会2日前の8月24日、新日プロにテレ朝から出向していた永里専務から「全日プロ興行のプロモートをやめなければ、9月末をもって新日プロは貴社との提携を解除する」という内容の契約解除通知書を突きつけられます。
大塚氏はこれに応じず、さらに馬場・全日プロとの連携を強化。田園コロシアム大会をサポート、大成功に導きます。
新日プロ「大量離脱」・大塚氏による壊滅作戦!
そして翌8月27日。大塚氏は恵比寿の事務所で記者会見を開き、「全日プロと協力しての選手引き抜き、新日プロ潰し」を宣言!
大塚氏は新日本サイドが契約破棄という強硬手段に出た以上、全日本プロレスとの連携を強化するほかありません。大塚氏は新日プロに「4億円の損害賠償請求」という法的措置で揺さぶりをかけながら、選手の引き抜き工作を開始します。
そして9月、大塚氏は維新軍の長州力、アニマル浜口、小林邦昭、谷津嘉章、寺西勇の5選手の引き抜きに成功。
その後、さらに栗栖正伸、永源遙、保永昇男、新倉史祐、仲野信市、キラー・カーン、笹崎伸司、マサ斎藤、タイガー服部レフェリーが合流。
営業スタッフなど社員も含め、「大量離脱」に見舞われた新日本プロレスは、存亡の危機に立たされます。
そして10月9日、大塚氏の新日プロ興行は長州の個人事務所「リキプロダクション」と合併する形でジャパンプロレスに改称。後に社長も大塚氏から長州力となり、晴れて長州力は団体を背負うことになりました(経営の実権はスポンサーの竹田会長と、大塚氏が握り、実質長州は現場監督だったそうですが)。
そして馬場・全日プロと業務提携を結び、全日プロマットを主戦場として完全に猪木・新日プロの敵対勢力となります。
12・4プレ旗揚げ戦 渕がマシン?
12月4日、香川県高松市民文化センターでジャパンプロレスは初の自主興行、プレ旗揚げ戦を開催。
メインは長州力vs「覆面X」。ストロングマシーンのマスクを被った男の正体は、馬場から派遣された渕正信でした。
長州はわずか95秒でマシンを秒殺。大塚氏はその短時間決着に「せっかく来てくれたお客様に対してそれはないだろう」と不満を漏らしますが、長州は「この方がインパクトがあるだろ」聞き耳を持たず。
この”ズレ”は、この後も埋まることはありませんでした。
猪木の「大掃除」発言
この一連の騒動に対し、新日本プロレス総帥・アントニオ猪木は、9月28日に京王プラザホテルで「選手大量離脱に関する緊急記者会見」を開き、「新日本プロレス、暮れにはちょっと早い大掃除」と笑い飛ばしました。
これはもちろん猪木一流の強がり、痩せ我慢の美学なのですが、大塚氏はこの発言にも、猛然と噛み付きます。
「猪木さんは今回のことで 大掃除ができたと言ってるそうですが…我々を含めて選手たちをゴミと思っていたのでしょうか。ウチに来た選手は“武士の情”で、何ら猪木さんや青山(新日プロの通称、事務所が青山にありました)への不満を口にしないのに、あまりにも一方的ですね。この1年間で36人もの人間がなぜやめたのか、その事実をどう考えているんでしょう。まあ、ウチもリングを買ったし、ウチのリングに出てくれるなら(猪木さんの)参加も考えましょう。とにかく新日プロが変わらなければ、今後も選手がどんどん辞めていくと思いますよ。」
対する新日本プロレスは、団結力強化のための「闘魂合宿」を開催。若き日の闘魂三銃士らがトレーニングに打ち込む姿がTV放送され、一致団結をアピールしました。
キッド、スミス電撃移籍!
ここで新日本プロレスに、さらなる余震が襲います。
11月、新日プロの年末「第4回MSGタッグリーグ戦」に出場するため来日したダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミスが、空港で待ち受けていたジャパンプロのスタッフと共に、全日プロの定宿であるキャピタル東急ホテルに直行。
なんと全日プロの「’84 世界最強タッグリーグ戦」に出場する事を、記者会見で発表します。
これには当然、新日プロも黙っておらず会見会場に坂口副社長が契約書を持って現れ抗議。
その後もMSGタッグリーグ戦の立会い人として来日していたビンス・マクマホンjr.と共に馬場と会談を持つなどしますが、結果として2人の移籍を止める事はできませんでした。
ただし、テレ朝との契約問題がクリアされず、このチームの試合は日テレ「全日本プロレス中継」ではオンエアされませんでした。
これはジャパンプロレスは無関係で、WWFのルール無用の全米進行作戦に危機感を抱いたNWA(当時、馬場は副会長)による対抗策であった・・・と言われていますが、馬場・全日プロとして、新日プロへの打撃を狙っての一矢であることは、疑いようもありません。
全日プロ中継ゴールデンタイム復活!
翌1985年、スーパーストロングマシン、ヒロ斉藤、高野俊二もジャパンプロレスに合流。3人は独立ユニット、カルガリーハリケーンズとして活動します。
また、ロスアンジェルス オリンピック代表、専修大学で長州の後輩にあたるスーパールーキー、馳浩も獲得。この時期に佐々木健介も入門しています。
ジャパンプロ勢の拡大はそのまま全日プロの人気向上につながり、新日プロとのレスリングウォーは全日、ジャパン合同軍が圧倒します。
長州は天龍、鶴田らと激闘を展開。全日プロマットは選手が多すぎて試合が組めない、という嬉しい悲鳴を上げます。
そして長くテレ朝「ワールドプロレスリング」に押されていた日本テレビはこの機を逃さず「全日本プロレス中継」のゴールデンタイム昇格を発表。
土曜17:30からだった放送が、久々に19時からのゴールデン復活となりました。
ちなみに…ゴールデン復活1発目の放送は、NWA(リック・フレアー)とAWA(リック・マーテル)のダブル世界戦という豪華なマッチメイクでした。
>次回②では、ジャパンプロレス「幻の独立計画」の野望と内紛、そして新日本プロレスUターンから崩壊までの経緯を解説します!
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