「SWSとは何だったのか?」を振り返るシリーズ。第③回は3年目、1992年です。
1992年 天龍vsフレアー
1月12日
後楽園ホール『昇龍激闘~ザ・バトルホールⅥ』
4月17/18日
東京体育館 『バトル・メッセージ’92』
高野俊二vsケンドー・ナガサキ、藤原・維新力vs北原・仲野、エル・サタニコvsウルティモ・ドラゴン、阿修羅原vsG高野、佐野vsチャボ・ゲレロ、メインは天龍vsリック・フレアー!
↑この大会はテレビ東京が録画中継。
そして崩壊へ
5月14日
選手会長・谷津が辞意、天龍体制批判会見
遂に、というかとうとう、天龍派と反天龍派(谷津・高野・道場 檄)の対立が表沙汰になり、この後に谷津と仲野はSWS退団に追い込まれます。
ちなみに谷津と仲野のラストマッチは大ブーイングに包まれ、試合後に谷津が観客席に投げたSWSジャージが観客から投げ返される、というオチが。
5月18日
天龍派と反天龍派が真っ2つに分かれたカード編成での新シリーズ開幕
5月23日
緊急理事会を開き、7月以降の天龍派と反天龍派の2派に分かれての活動を決定
SWS解散会見
5月25日
東京・全日空ホテルで、23日の理事会の決定事項を正式発表
SWSとしての興行活動の休止、天龍派(後のWAR)と高野、鶴見派の『パライストラ』と『道場「檄」』連合(後のNOW)の2団体へ分裂が決定。
要するに「SWS解散会見」です。
メガネスーパーはそれぞれ各団体に対しWARには2年間、NOWには1年間のスポンサー料を援助する、と発表しました。「当面援助はしてやるから、後は勝手にやってください」という話ですね。
SWS最後の後楽園大会を終えた天龍は、レボリューションのメンバーと共にリング上で挨拶。天龍を心配したファンが200人ほど会場に残る。天龍は「俺は絶対裏切らないから、ここは帰ってくれ。俺は絶対に嘘つかないよ。信じてくれ」とファンに語りかけると声援と拍手が起こりました…というゴングの報道に対し、
週プロは毒霧を受けてリング上でバンザイする天龍と、レボリューションメンバー。そしてそのショルダーには「こんなSWSに誰がした!」
…「オマエだよ!」と当時のプロレスファンは、全員ツッコんだワケです。
SWS最終興行
6月19日
長崎国際体育館 『宣戦布告’92』をもってSWSとしての興行活動終了
阿修羅・原の故郷の長崎で行われた最終興行。
最後までWWFの外国人同士のカードも組まれ、観戦した地元民曰く「長崎とは思えない豪華な興行」だったそうで、観客の入りも上々だった模様。
SWS最終試合は天龍・原・ウルティモvsカブキ・ハク・エストラーダ戦で、パワーボムから天龍の勝利。
終局、それぞれの道へ
6月27日
反天龍派がNOWの発足を発表
6月28日
天龍派がWARの設立を発表
8月9日
NOW プレ旗揚げ戦
9月10日 週刊文春誌上で、高野兄弟によるSWS騒動の顛末とメガネスーパーを痛烈に批判する手記が掲載されました。この一件で高野兄弟はNOWを離脱、新たに谷津・仲野を発起人に加えたPWCを旗揚げします。
分裂した派閥がさらに旗揚げ前に分裂して世話になった会社も批判。「立つ鳥跡を濁しまくり」というのが、まさにこのメンツの真骨頂ですね…
ちなみにNOWは維新力をエースに上田馬之助との抗争(伝説の「出刃庖丁デスマッチ」)など活動を続けましたが、興行成績が低迷。やがてメガネスーパーからの資金援助も打ち切りになります。
そして12月、事実上のSWS傘下団体となっていた藤原組も内紛が発生し、興行活動を停止
これをもってメガネスーパーはプロレス業界から完全撤退となりました。
こうして華々しく旗揚げしたSWSはたった3年で完全崩壊となりました。
SWS失敗の原因とは、いったい何だったのでしょうか?
コメント