ここまで、時系列でのSWSの3年間の歩みを振り返ってきました。ここからは、トピックごとに「SWS失敗の要因」について、分析していきます。
キーパーソンは若松市政、エース候補は武藤だった
メガネスーパーをプロレスファンが認知したのは、第2次UWFのスポンサーとしてだったと記憶しています。(当時のパンフの背表紙に田代まさし(!)がキャラクターの全面広告が載り、初の東京ドーム興行 U-COSMOSは“メガネスーパー プレゼンツ”の冠がついていました)
ですので、メガネスーパーのプロレス進出プランは普通に考えれば「UWF丸抱え」であったと思うのですが・・・田中社長の狙いはズレ、結果的に「従来型のプロレス団体」の経営となりました(後にSWSはUWF選手の出場を計り、藤原の貸し出しが発表された事もありましたが、それが選手とフロントの関係悪化を招き、第2次UWF崩壊と分裂の遠因を作ることに)。
真意の程は定かではありませんが、一説ではバブル期に株の売買で百億近い資金を得た田中社長が「税金に持っていかれるくらいなら」と興した新規事業がプロレス団体経営であったとも。
これは「そうでもないとあんなに大盤振る舞いしないだろ」という意味で、納得感があります。
そして、ここで「暗躍」したのが若松市政でした。
後に判明しているところでは、メガネスーパー田中社長とUWFを観戦するなど旧知の仲だった若松市政が、SWS旗揚げ前年の89年にカルガリーでミスターヒトに新団体設立への協力を要請。
その後アトランタでケンドーナガサキとWCWで活躍中だった新日プロ所属の武藤敬司も勧誘。その後、フィラデルフィアとロングアイランドでWWF、ドイツのCWAトーナメントを視察して11月に帰国しています。
武藤はWCWから帰国した直後、引退シリーズを控えた坂口征二氏に挨拶をしに行った際、「メガネスーパーから勧誘された」と明かし、坂口氏は猛然と慰留。結果として、武藤は動きませんでした。
これを裏付けるように、のちにメガネスーパーの田中八郎社長はSWS崩壊後に
「最初の予定は、武藤敬司選手を誘って、3年から5年かけていい選手を育てていくつもりだった。そうしたら来ると思っていなかった天龍選手が取れてしまった。天龍選手が来たことにより5年も遊ばせることは出来ないので、試合をしなくてはいけなくなった。そうしたら天龍選手が来たことでいろんな選手がついてきた。連れてきた以上はダメとは言えないし。当初、考えていた構想とは違う方向に行ってしまった」
と語っています。
”寄せ集め”の悲劇
結局、新日から実際に動いたのはジョージ高野と佐野直喜。
なぜこの2人だったのか?特にJr.のタイトル戦線にも絡み、メキシコ遠征を控えた佐野の離脱は接点としても謎です(一説ではこの時期に同期の畑が引退、その処遇を巡って新日に不満を抱いての離脱とも)。
一方、全日からはカブキ、冬木、石川、高木、鶴見、北原、折原、谷津、高野俊二、仲野らがSWSに移籍しました。
天龍派と言われていた冬木、カブキ、付き人の折原、相撲つながりの石川、高木、兄のいる高野俊二はわかりますが、鶴見、北原、そして谷津と仲野は天龍からしても「なんで来るの?」という感じだったのではないかと(笑)。
おそらくは先の田中社長の指示の元、あらゆるツテを辿って声をかけまくった挙句、「いろんな選手がついてきた」のでしょう。
集まったメンツをみれば、当然元々所属する団体でストーリーラインに乗れない、不満を持っていたレスラーが飛び出して来ているワケです。
そしてこの「寄せ集め」が後々、さまざまな確執の原因となりました。
プロレス団体や興行の仕組み、を理解していれば、誰がどう考えても天龍が絶対的なエースで、観客の多くもそれを期待するのが当たり前の話・・・なのですが・・・
集められたレスラーの多くは、それに納得しませんでした。
「道場制を敷いて、対抗戦でやるから」と言われていた、とも思いますが、とにかく予想以上に「俺は天龍を担ぐために来たんじゃない!」と不満をもらすレスラーが多すぎました。
マッチメイクへの不満
一つ目の不満は、天龍派がマッチメイクの主導権を握っていた事でした。
初期のマッチメイクはカブキが務めていましたが、観客の期待通りに天龍を主役にしたカードを組むと「反天龍派」が不満をもらします。
そのため、天龍はなんとなく遠慮したような雰囲気で、「絶対的なエースとして」というより勝ったり負けたり、気を使っている様子が伺えました。これに全日時代からの天龍支持層は、モヤモヤした感覚を抱きます。
旗揚げ当時のプランニングでは、三部屋それぞれに専用道場を全国各地に建設し、人材育成と選手による社会奉仕の構想が練られていました。
しかし結局、当初建設された新横浜仮道場、さらには1992年4月に川崎・百合丘に総工費7億円をかけて建設された本道場(当初はレボリューション専用となる予定だった)を使い回ししたため、道場は単なる「派閥」となっていきます。
「北尾事件」の責任を取るカタチでカブキが降りてからは、道場「檄」からは谷津、パライストラからドン荒川が補佐役的にマッチメイクに参画。
しかし、このメンツでは混乱が増すばかりで、結局は谷津の選手会長辞任からの暴露記者会見で、対立は決定的なものとなりました。この前日には反天龍派が田中氏の自宅に押しかけて直談判し、ひと騒動あった、と言われています。
WWFとの提携にも不満
もう一つの反天龍派の不満は、大金を払い提携したWWFに対してでした。
旗揚げ当初はサクラダ・ルートでジェフ・ジャレットらを招聘していましたが、天龍自らアメリカに渡り、当時WWFのエージェントだった佐藤昭雄と提携をまとめます。
全日出身の天龍は「いい外国人がいないと客が入らない」という考えで、メガネスーパーの田中社長も「そんなに高いお金じゃない」(!)とこの提携を認めます。
事実、SWSがこの短期間に2度も東京ドームで興行したのも、WWFとの提携があったお陰でした。
しかし、別にWWFと提携したら自分らのギャラが下がる、という事はなかったにも関わらず、反天龍派の主張は「WWFのショッパイ選手らに大金を払うくらいなら、自分らにもっとよこせ」という主張だったようです。銭ゲバ!
金の不満だけじゃない?
天龍がオーナーの田中氏から一任され、社長として契約更改を行った最後期の契約時にも、天龍は誰一人ギャラを落とさなかった、と言われています。
それでも、全員の契約更改が完了した直後に、反天龍派の田中邸直訴事件が起こり、谷津が記者会見で天龍体制を批判、完全に分裂状態となりSWSは解散。天龍派と反天龍派に分かれて団体を興すことになりました。
この時に何があったのか、は諸説ありますが、選手達は少なくとも、かつて所属していた団体よりは数倍のギャランティを貰っていたワケで、おとなしくしていれば保証されていたのです。
それでも結果的に団体が成り立たないほど揉めたのには、ギャラだけではなく、「なんでアイツの方がいい思いするんだ」とか「俺の方がアイツより上だ」などなど、プロレスラーならではのメンツとジェラシーが渦巻いていたからでしょう。所属団体が同じであれば少なくとも年功序列が成立しますが、寄せ集めではそうはいきません。ただ単に強い、弱いだけで価値の決まらないプロレスラーの「評価」は、マネジメントしづらいにも程があります。
当然、一般企業の論理として「ここまでしてやっているのに、どこまでもキリがない、もう付き合いきれない」となったのが、解散の決め手だったのでしょう。
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