1980(昭和55)年7月に開催されたモスクワオリンピック。
前年12月のソ連のアフガニスタン侵攻への抗議措置としてアメリカが先導し、日本を含む西側諸国の多くが参加をボイコット。
「五輪が政治利用され、多くのアスリートが涙した“悲劇のオリンピック“」として、記憶されています。
日本ボイコットへの流れ
1979(昭和54)年12月、ソ連のブレジネフ政権が親ソ政権を支援し、イスラーム原理主義ゲリラを抑えるためアフガニスタンへ侵攻。その対抗措置として、アメリカのカーター大統領が1980(昭和55)年1月20日、「五輪ボイコットも辞さず」と発表します。
この時点では外交上の駆け引きとの見方も多く、まさか本当にボイコットに至るとは考えられていませんでした。しかしアメリカ国民はカーター大統領の強硬姿勢を強く支持。同年年末に大統領選挙を控えていたカーター大統領はこれを追い風と捉え、西側友好国へのボイコット呼びかけを行いました。
呼びかけられた側の日本政府の反応はまさに「玉虫色」。参院選挙を控える時期ということもあり、時の大平正芳首相も「不参加」とは明言しないまま、「あくまで主体はJOC(日本オリンピック委員会)である」として、ズルズルと時間だけが過ぎて行きました。
各国が参加、不参加を決める中、日本では議論が噴出、結論も二転三転。そしてついに5月24日のJOC総会での採決で「29対13」で「不参加が決定」してしまいます。まだこの時は「ナショナルチームとしては不参加、個人や競技別での参加には期待する」とされていました。
しかし6月10日、IOC(国際オリンピック委員会)が「個別参加は認めない」と正式決定。一縷の望みも絶たれ、日本選手は誰一人、参加することはできなくなりました。
ちなみに、「西側諸国の多くがボイコット」と記憶されていますが、実際は、イギリス / イタリア / オランダ / ギリシャ / デンマーク / フランス / ベルギー / ポルトガルは参加しているのです。その多くは抗議の意を表し、五輪旗での入場となりました。
逆に西側でもない中国は当時、ソ連と対立していてボイコットしています。
そしてアフガニスタンと関係の深いイラン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトなどイスラム教諸国もボイコットしました。
また、モスクワ五輪不参加でアメリカ国民の支持を得たハズのカーター大統領は…同年11月の大統領選でロナルド レーガン候補にあっけなく大敗してしまいました。
幻のメダル候補たち
モスクワ五輪で活躍が期待されていたのは、なんといっても柔道の山下泰裕選手と、マラソンの瀬古利彦選手。
マラソンは宗猛選手、茂選手の兄弟と共に表彰台独占?とまで言われていました。
体操は具志堅幸司。水泳の長崎宏子選手は史上最年少、小学生での出場となるはずでした。
女子バレーも三ツ矢裕子選手、横山樹里選手らを擁する「新東洋の魔女」は、連覇を狙う金メダル大本命。
レスリングでは高田裕司選手が金メダル大本命、太田章選手、後に新日本プロレス入りする谷津嘉章選手も重量級では日本初のメダル候補と言われていました。
谷津選手はオリンピックに出られなかったばかりか、鳴り物入りで入団した新日本プロレスでの国内デビュー戦でハンセン&ブッチャー組に血だるま公開処刑にされるという「Wの悲劇」。「いとをかし」としか、かける言葉が見つかりません。
テレビ朝日の独占放送計画!
遡ること3年前。1977年3月9日に日本教育テレビ(NET、現 テレビ朝日)が「大会組織委員会(MOOC)と契約し、モスクワ オリンピックの日本での独占放送権を獲得」と発表しました。
ちなみにこの翌月に社名も「全国朝日放送」と変更、この時から略称が“テレビ朝日“となります。
この前年、1976年開催のモントリオール オリンピックでNHKと民放が初めて共同取材チーム「ジャパン プール」を組み、共通の画面・音声を分配する体制で放送権料を抑える事に成功していただけに、この“契約金20億円“の“抜け駆け“とも取れる一局独占契約は、放送業界に大きな波紋を呼びます。
当時の同局の社長・高野信氏は、MOOCから招請状が届いた翌日の民放連理事会の席上、日本の放送制度の現状として、国家的な問題が生じるといつもNHKが代表する慣行があることに疑問を呈した上で、MOOCとの交渉を宣言していました。同局はこの前年、ワイドショー「アフタヌーンショー」でモスクワからの衛星中継を実施していたことから、高野は「その際にMOOCの関係者から五輪放送について個別に協議したいという感触を得ており、NHK・民放共同でと望んでも先方で受け付けないかもしれない」と、強気の構えだったといいます。
テレビ朝日は契約後、国内放送各社に対し「時間や金額が合えば、希望する局には五輪の映像を分配する」としましたが、NHKとほかの在京民放3局(日本テレビ、TBS、フジテレビ)は猛反発しました。
そんな中で勃発した「ボイコット」。
結局、テレビ朝日は五輪放送の総時間を当初計画の206時間から44時間へと大幅に縮小せざるを得なくなり、この社運を賭けた試みは、結果としては大失敗に終わってしまいました。
伝説の「オリンパソン80」
5月5日に放送されたモスクワ五輪PR番組「オリンパソン’80」は、もはや伝説です。
テレビ朝日はこの5月5日朝から深夜までまるごと「オリンピック一色」で盛り上げようと、総合司会に久米宏さんとジュディ オングさん、人気者のドラえもんやドリフターズ、ゴダイゴなどを起用したリレー形式の長時間番組を企画します。
目玉は西城秀樹さんの歌う五輪中継イメージテーマソング「俺たちの時代」のお披露目でした。
原作詞:熊野昌人、補作詞:たかたかし、作曲:水谷公生、編曲:佐藤準
しかし…そもそも参加するかどうかで大揺れに揺れている時期のため、終始、微妙な空気が流れまくり…おそらくは予定されていたメダルが期待されるアスリート(当時はこの呼び名はなく「選手」ですが)たちの特集やインタビューなどのプランはすべて台無し。
代わりに「日本はオリンピックに参加すべきか否か」のアンケート企画や、討論会などが番組の大半を占めるという「華やかに盛り上げ」どころか「五輪とは何かを考える」という、哲学的かつ深刻な1日放送になってしまいました。
その後、不参加が正式決定されるとテレビ朝日は「日本、アメリカ、西ドイツ、中国などが出場しない五輪では放送するに値しない」と一時は放送を断念する、と正式決定しますが、これまた業界から批判を浴びまくり、規模を大幅に縮小して深夜の録画放送のみ、となりました。
悲劇のマスコット「こぐまのミーシャ」
モスクワ五輪のマスコット「こぐまのミーシャ」。
愛らしいビジュアルで人気があり、テレビ朝日系列でテレビアニメにもなりました。(日本アニメーション・朝日放送 共同製作、1979年10月6日~1980年4月5日 全26話)
テレ朝独占契約の黒幕「テレビ朝日の天皇」とは
この”大仕掛け”を成功させたのは、テレビ朝日の重役で「怪物」「天皇」とまで呼ばれた三浦甲子二氏。
アルバイトとして入社し、朝日政治部記者、政治部次長を経てテレビ朝日専務にまで登りつめた男。
その実力は、讀賣新聞の“ナベツネ“こと渡辺恒雄氏をして「三浦はすごい奴だった。たとえば河野一郎が『おい三浦君、これはどうだろう』なんていうと『ああ、そうだ』という調子…僕が『中曽根さん、この件はどうですか』と言うところを『おい中曽根、お前はどうだ』だからね」「中曽根総理大臣を作ったのも三浦甲子二。僕と三浦で田中角栄に『中曽根を是非総理に』と頼んだ。そのとき、角栄は便所へ行った。三浦も付いて行った。なかなか戻ってこない。後で聞くと、OKとの返事を得ていた」と語っています(「渡辺恒雄回顧録」中央公論新社 2000年刊)。
三浦氏はプロレスファンには、新日本プロレス クーデター事件で「猪木復権」となる鶴の一声をした人物として知られ、猪木アリ戦ほかの大仕掛けにも資金面を含め多大な協力をした、猪木のよき理解者とも言える“超“大物です。
もとは朝日新聞の河野一郎番記者だった三浦氏は、政財界とも太いパイプを持ち、出世コースにも乗った花形記者でした。しかし、社内闘争に敗れ退社し、NETの常務取締役となってからは「日本教育テレビ=NET」の教育専門局から一般局化、「腸捻転」の解消、そして社名を「全国朝日放送」と改めるなど、次々と改革を断行。そして次なる一手が、「モスクワ五輪単独放送契約」でした。
三浦氏は朝日新聞時代からソ連と太いパイプがあり、「ソビエト連邦のスパイとして活動したとする、旧ソ連情報機関関係者からの証言やソ連国家保安委員会(KGB)文書の記載がある」とされる人物(自民党の超大物・河野一郎氏は1956年、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた人物です)。
この「テレビ朝日・モスクワオリンピック中継権単独契約」は他局を出し抜き、言ってみれば三浦氏による「テレビ朝日メジャー化計画」の大仕掛けだったワケです。
しかしながら前述の通り、西側諸国のボイコットにより結果的にテレビ朝日は大損害を被る結果となりました。
しかし、プロレス的に言えば…
古舘伊知郎アナウンサーは1977年入社で、五輪中継用に大量採用された中の1人(同期は南美希子さん、佐々木正洋さん、宮嶋泰子さん、吉澤一彦さん、渡辺宜嗣さん)と言われています。
出世番組となった「ワールドプロレスリング」の実況も、先輩の舟橋慶一アナウンサーがモスクワオリンピックのチーフアナウンサーとして中継に駆り出されたために抜擢された、と言われています。1977年、入社からわずか数か月で越谷市体育館での長州力VSエル・ゴリアス戦で実況デビューしていますが、舟橋アナがモスクワ五輪で多忙にならなければ、エースへの昇格はもう少し遅れたのかもしれません。
いささか飛躍した見方ですが、このモスクワ五輪がなかったら、80年代の古舘伊知郎アナウンサーによる“過激な実況“はなかった…かもしれないのです。
三浦甲子二氏は、このモスクワ五輪から5年後の1985(昭和60)年、享年60歳で亡くなりました。
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