欽ちゃんとドリフとビートたけし、そしてダウンタウン~昭和のお笑い激闘史

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TV番組
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今回は、70~80年代にTVバラエティ界を席巻した”大将”こと萩本欽一さんとドリフターズ、”殿”ことビートたけしさん、そしてダウンタウンの知られざる関係性を取り上げます。

 

ビートたけしさんが師匠と過ごした浅草・フランス座時代を綴った自伝を、劇団ひとりさんが映画化した「浅草キッド」。そこに登場する”幻の芸人”深見千三郎さんは、萩本欽一さんの「大師匠筋」にあたります。

いってみれば、たけしさんは同じ浅草出身の、欽ちゃんから見れば弟弟子。

この2人は、「TVお笑い王」の座を巡り、争うことになりました。

 

「欽ちゃん」の時代

 

萩本欽一さんは、坂上二郎さんとのコンビ「コント55号」で大ブレイク。1968年に「コント55号の世界は笑う」(フジテレビ)「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」(日本テレビ)で、一躍お茶の間の人気者になりました。

1969(昭和44)年にザ・ドリフターズが「8時だョ!全員集合」(TBS)を土曜夜8時枠でスタートする際、リーダーであるいかりや長介さんは「裏がコント55号じゃ、とても勝ち目がないと思った」と語っています。

 

この言葉通り、スタート直後の「全員集合」の視聴率は10%台をウロウロ。「世界は笑う」にダブルスコアをつけられていました。しかし、沢田研二、キャンディーズなどナベプロの大物ゲスト投入が功を奏し、わずか1年で逆転。

 

 

このときの”土8の視聴率戦争”はドリフが勝利し、「世界は笑う」は1970(昭和45)年3月に終了。

 

萩本欽一さんはソロ活動をスタートし、「スター誕生!」(日本テレビ)、「オールスター家族対抗歌合戦」(フジテレビ)の司会者を務める傍ら、自身の冠番組である「欽ちゃんのドンといってみよう!」(フジテレビ/土曜夜8時)、「欽ちゃんのどこまでやるの?」(テレビ朝日/水曜夜9時)、「欽ちゃんの週刊欽曜日」(TBS/金曜夜9時)をスタートさせ、いずれも視聴率30%超えの大成功。

 

 

欽ちゃんは「視聴率100%男」として、名実ともにTVバラエティ界の帝王の座に君臨します。

 

欽ちゃんとドリフ

 

当時、萩本欽一さんはドリフとの関係について、

「もともとドリフとは仲良かったの。当時ぼくは大井競馬場で馬を持っていて、コーちゃん(仲本工事)とは大井でしょっちゅう一緒になってた。カトちゃん(加藤茶)交えて3人で麻雀したりね。でも、メディアがライバル構造を作るもんだから、お互い意識しちゃってさ。カトちゃん、コーちゃんとある時、プライベートで一緒に歩くのはやめようって決めたんです。」

 

 

また、1981(昭和56)年のいかりや長介さんとの対談では

「同じ仲間同士がおたがいにぶつかり合うのはよくないから、長さんとも話し合って『夏の間はオレのとこやめるから長さん“全員集合”やってくれ。その代わり、秋から冬は“欽ドン”やるから長さん、休んでよ』ってことにしたいと考えてるんだよ。」

と発言しています。

 

さらにこの年、志村けんと仲本工事が賭博で逮捕される、というドリフ最大のピンチの際、欽ちゃんは、

「こんなことでドリフが解散したり、番組をやめないでほしい。もし、万が一、そういうことになるのなら、最後の『8時だョ!全員集合』にはぜひ呼んでくれ。ドリフと一緒に思いっきり舞台を作って、私もそれを最後に引退する。いつまでもライバルでがんばって欲しいんだ。」

とエールを贈っています。

 

ビートたけし「打倒・萩本欽一&ドリフ」

 

そんな欽ちゃん・ドリフの天下を覆そうと挑んだのが、ビートたけしさんでした。

 

萩本欽一さんとたけしさんの年齢差は5歳。ただし、欽ちゃんは高卒、たけしさんは大学中退で芸能界入りしたため、芸歴でいえば約12年近い差があります。

 

1972(昭和47)年、たけしさんは浅草フランス座で深見千三郎さんに弟子入りしますが、深見さんは萩本さんの師匠である東八郎さんの師匠にあたるお方。この頃、すでに欽ちゃんは「コント55号」で一世を風靡していましたが、深見さんはTVを嫌っていて「テレビの芸は絶対にこの箱からはみ出せない。まるで芸人の棺桶だ。」と語っていたといわれます。

 

たけしさんは1972(昭和47)年に漫才コンビ「ツービート」を結成、TVに進出するやシニカルな毒舌の高速漫才で「B&B」「紳助・竜介」「ザ・ぼんち」らと、空前の”MANZAI”ブームを巻き起こします。

 

そしてたけしさんは、当時人気絶頂だった「欽ちゃん」に、敵意むき出しで挑み、「打倒!萩本欽一」を掲げて暴れ回ります。「お笑い界で天下を取るには、”いい人”の萩本を倒すしかない、どうしても引きずり下ろしたい」と考え、欽ちゃんの笑いのスタイル、笑いに対する姿勢をことあるごとに厳しく糾弾。「いい人ぶって、偽善じゃねぇかあんなもん」と目の敵にして、”タブーにも遠慮なく斬り込むワル”という、自身のスタイルを確立させていきました。

 

その一方、たけしさんは欽ちゃんに畏敬の念も感じていたようです。MANZAIブームの真っただ中(1982/昭和57年)、記者にMANZAIブーム後について聞かれたたけしさんは「結構持ってたはずの引き出しも、あらかた使っちまったしなぁ。そうだなあ、考えてるんだけど、これからは欽ちゃん、萩本欽一さんのマネをしようと思ってるんだ」と答えています。

 

そしてその後、たけしさんは「たけし軍団」を結成。軍団員に自分を”殿”と呼ばせたのも、個人事務所設立(や税金対策)も、”大将”萩本欽一さんを意識してのものだった、と囁かれています。また「お笑いが司会やれるのも、萩本さんが最初にやったからなんだよな。」とも。

 

たけしさん自身も後年、「コント55号とか好きだったんだけど、萩本欽一といかりや長介を引きずり下ろしたかった。この2人の牙城を崩さない限り、ひょうきん族はありえないと思った。」「”いい人”の萩本さんとかドリフの番組がずっと続くようだったら、これ、お笑いの危機だと思ったわけ。俺にとってね。悪いことばかりしていたこっちの時代が永久に来ない。」と、当時の心境を明かしています。

 

たけしさんの「オレたちひょうきん族」(1981 昭和56年5月スタート、フジテレビ/土曜夜8時)は、「打倒!ドリフターズ」を掲げ、徹底したアドリブと内輪ウケを展開。

1984(昭和59)年に裏番組・ドリフターズの「8時だョ!全員集合」の視聴率を逆転し、常時20%以上の視聴率を記録。1987(昭和62)年頃まで、独走状態を続けます。

 

そして1985(昭和60)年3月、萩本欽一さんは”充電”と称して当時のレギュラー番組を全て降板し、半年間程休養すると発表します。すると入れ替わりのように、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ/日曜夜8時)がスタート。

”お笑い界の政権交代”と言われました。

 

たけしからダウンタウンへ~欽ちゃんとダウンタウンの関係

 

そこから長く人気を誇った「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」でしたが、1994年9月、たけしさんがバイク事故による休養で半年間番組を休むと、人気が下降。

 

同時に、それまで互角の視聴率争いを繰り広げてきた裏番組の「ダウンタウンのごっつええ感じ」の視聴率が上がり始め、次第に突き放されていくようになりました。

 

たけしさんは翌年3月に復帰、さまざまなリニューアルを施しますが功を奏さず、結局1996(平成8)年10月、放送開始から11年半でその歴史に幕を閉じました(「ひょうきん族」はさらに早く、1989(昭和64)年に終了)。

 

実は、ダウンタウンが東京に進出するきっかけを作ったのが、欽ちゃんでした。

 

萩本さんは、「出演している番組のディレクターが大阪まで漫才を見に行って、“これからはこの男たちしかいないだろう”と。それで“呼んできて”って言ったんだよね。」と当時を振り返ります。

 

ダウンタウンは「欽ドン!ハッケヨーイ笑った!」(1986-87年)に起用され、これが大阪の若手漫才師だった2人の、東京進出の足掛かりとなりました。

 

 

NSCという養成学校出身だったダウンタウンにとって欽ちゃんは初めての師匠的な存在。そのため、2人は欽ちゃんに恩義を感じており、浜田さんは「現在の自分があるのは欽ちゃんのおかげ」、松本さんも「欽ちゃんに(番組やろうよと)誘われたら、断れない」と語っています。

 

萩本欽一、ビートたけしを語る

 

たけしさんは2008(平成20)年4月、長野市で行われた「欽ちゃんの聖火リレー」報道に対して、自身が客員編集長を務める「東京スポーツ」の1面コラムで「あの人は何でやんないかな?バカだな~、オレだったら絶対、火を消したり間違って水の中に落っこちたり、ギャグしか考えないけどな。何かやれよほんとに(笑)」「この人おかしいよ。お笑いのくせに、愛と涙ばっかしやりやがって。インチキくせえことばっかり。お笑いなのにギャグやんないんだから」「大体、お笑いなんて反逆的なことじゃない?国に媚び売るような芸人なんて面白くない。そういうのは星野仙一さんに任せておけばいいんだよ」などと語り、相変わらずの姿勢を貫いています。

 

 

そして2011(平成23)年、今度は萩本欽一さんがTV番組で「ビートたけし」を語りました。

フジテレビで放送された「テレビを輝かせた100人」。

 

萩本欽一さんは大物ゲストとして番組途中に出演、自身の知られざるエピソードを語ります。そこに、当時「たけし軍団の大番頭」と呼ばれたガダルカナル・タカさんが、思い切って、という表情で斬り込みます。

「色々な萩本さんの笑いのセオリーの中で『下ネタをやらない』っていうのがあると思うんですけど、たけしさんを含め我々はずーっと下ネタオンリーみたいなところがあって(笑)、それを萩本さんはどんなふうにご覧になっていたのかな?って。すれ違う瞬間、楽屋が近くにあってもご挨拶できなかったりしたので。嫌われてるんじゃないかなーとか。そういうのもあったんで。」

 

すると欽ちゃんはいつものとぼけた表情で

「あ、そういう他の人がやってるなんて、全然なんともないし。現に私だって、裸の劇場で下ネタやってるところでやってましたから。ただ、僕の師匠の東八郎さんがたったひとつ教えてくれたのが『笑いやってて芸人疲れてくると下ネタに行く。下ネタはよくウケる。だから下ネタをやるな、じゃない。それが出たら疲れてると思え』ってアドバイスがあったのよ。だから東さんがやってる限り、(元気で)やってるよっていう意味でも(下ネタはやらなかった)。(師匠への)恩返しみたいな。だから全然、相手がやるのは気にしてない。」

 

そして欽ちゃんは、タカさんに優しく微笑みながら

「だから(たけしに)言っておいて。大好きだって。」

これを聞いたタカさんは感極まり、堪えきれずに涙をこぼしました。

 

別のインタビューでも欽ちゃんは

「今や”世界の北野”だけど、ぼくにはそんな偉い人じゃなく、浅草の軽演劇を語る最後の人だっていう親近感があります。あまり話したことはないけど、同じアパートの隣の部屋に住んでる後輩っていう感じですかね。この前、森光子さんの葬儀でたまたま席が隣同士だった時も、お互い、ニコッと笑いあっただけ。でも何か通じるものがありました。」

と語っています。

 

日本の「お笑い」の系譜

 

60年代のクレイジーキャッツ~70年代以降のドリフターズへの流れは以前、書きました(関連記事参照)。

 

もっと大きな流れで見ると、60年代にクレイジーキャッツが一世を風靡して、60年代後期からコント55号を挟んで70年代はドリフターズと萩本欽一が天下を獲り(第一世代)、それを覆したのが80年代のビートたけし、明石家さんま、タモリ(第二世代)、その「たけしより売れてやる!」と出てきたのがとんねるず、そしてダウンタウン、ウッチャンナンチャン(第三世代)・・・ということになります。

 

▼TVのバラエティ・お笑い番組の歴史を、ざっくり年表にまとめてみました。

 

<関連記事>

「視聴率100%男」萩本欽一~欽ちゃんファミリー80年代ヒット曲集

70-80年代「ザ・ドリフターズ」伝説〜①結成から「8時だョ!全員集合」へ

70-80年代「ザ・ドリフターズ」伝説〜②ドリフの笑いとは?

70-80年代「ザ・ドリフターズ」伝説〜③ドリフ音楽編

60年代の「ハナ肇とクレージーキャッツ」〜①TV・映画編

60年代の「ハナ肇とクレージーキャッツ」〜②音楽編 抱腹絶倒なコメディソング集

コメント

  1. イノマー より:

    はじめまして 偶然たどり着きました
    いろいろ懐かしい画があり今にはないものもあるなあという気持ちです(*´ω`)

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