電線マンとしらけ鳥〜1976 伊東四朗&小松政夫「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」

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TV番組
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前回の記事では、欽ちゃん、ドリフターズからビートたけしという70-80年代の「お笑いの系譜」を紐解きました。

 

この時代のTVお笑い番組で、我々世代に強烈なインパクトを与えた番組があります。

 

それが、伊東四朗さんと小松政夫さんがキャンディーズと共演した、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」です。

 

 

「電線マン」と「しらけ鳥」が話題沸騰、その瞬間風速は欽ちゃん、ドリフを上回るほどの人気番組でした。

 

 

関東の喜劇人・伊東四朗

 

伊東四朗さんは1937(昭和12)年、東京下谷の生まれ。

小学生時代にエノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)、シミキン(清水金一)、ローレル&ハーディ、アボット&コステロ、ロイド、キートン、チャップリン、レッド・スケルトンなどの喜劇映画を浴びるように観て育った伊東さん。

 

就職試験にすべて落ちてアルバイトをしていた頃、ストリップのフランス座に「学割」で入り浸るうちに、ストリップの合間にコントを演じていた石井均に声をかけられて一座入りしたのが、喜劇人としてのスタートでした。

 

その頃、新宿フランス座は石井均が座長格で、戸塚睦夫、八田圭介、水谷史郎、石田英二、三波伸介。

 

池袋フランス座は長門勇と池信一。

 

浅草はフランス座には渥美清、谷幹一、関敬六、ロック座に立原博、八波むと志、佐山俊二。浅草座には海野かつらが出演し、ほかにもカジノ座などがあった時代です。

 

1958年、石井均に誘われて「笑う仲間」に入り、松竹演芸場に出演。そして1962年、三波伸介、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成

 

1965(昭和40)年、日本テレビ「九ちゃん!」(坂本九主演)でテレビのレギュラー出演が始まり、作家の井上ひさしと出会い、映画にも出演しました。

 

1972(昭和47)年からはNHK「お笑いオンステージ」の「てんぷく笑劇場」で人気を博しますが、1973年に戸塚さんが42歳で病死。徐々にソロ活動が中心となりました。

植木等に見出された小松政夫

 

小松政夫さんは1942(昭和17)年、福岡生まれ。

 

父は地元の実業家で名士でしたが、小松さんが13歳の時に病死し、以降は困窮を極めたとか。

 

小松さんは高校卒業後、花屋、印章店、薬のセールスマン、魚市場などさまざまなアルバイトなどを経験した後、横浜トヨペットのセールスマンに。

 

ここで「植木等付き人募集」の広告を見て応募。小松さんは600人の中から見事選ばれて1964(昭和39)年、植木等さんの付き人兼運転手になります。

 

そして師匠である植木等さんやクレージーキャッツのメンバーの後押しを受け、芸能界入り。

初期は淀川長治さんのモノマネが得意技でした。

 

 

伊東四朗&小松政夫コンビの誕生

 

1970-73年にTBSで土曜昼に生放送されていた「お笑いスタジオ」。この番組で2人は初共演を果たします。

 

その後、1975(昭和50)年に「笑って!笑って!!60分」がスタート。もともとはずうとるびがメインの番組でしたが、2人がハンダースらと演じるコントでの「小松の親分さん」が爆笑を掻っ攫い、主役となります。

 

勢いに乗る2人は、同年10月スタートの日曜夜8時「ドカンと一発60分」(NET/現テレビ朝日)に出演(司会は土居まさると桂三枝)。

 

実は「電線音頭」は、この番組で桂三枝さんが歌ったのが最初。こんなレコードが発売されています。三枝さんは、後にこの曲が伊東&小松コンビで一世風靡したのをどんな思いで見ていたのでしょう(笑)。

 

この番組は1976(昭和51)年3月に終了しますが、半年後に同枠で「みごろ! たべごろ! 笑いごろ!」がスタート。

 

遂にこの番組で伊東四朗さんと小松政夫さんは、大ブレイクを果たします。

 

「みごろ!たべごろ! 笑いごろ!」

 

「みごろ!たべごろ! 笑いごろ!」

1976年10月-1978年3月
毎週月曜夜8時
企画 渡辺プロダクション
制作 NET(現 テレビ朝日)

 

番組当初のコンセプトは「キャンディーズを中心に、加山雄三の歌とコントでつづるバラエティー」というものでしたが、途中から伊東&小松コンビの「電線音頭」が完全に番組を乗っ取ってしまいました。

 

メインコーナーは伊東四朗さん、小松政夫さん、キャンディーズが演じる「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」という座敷コント。

 

小松さん曰く「キャンディーズのプロ意識は本当にすごかった」。

 

引退を控えた半年間のコントでキャンディーズの3人は伊藤蘭のラン助、田中好子のスー吉、藤村美樹のミキ子として、2人を食うほどの熱演を見せ、爆笑を掻っ攫いました。

 

電線音頭 と ベンジャミン伊東

 

そしてなんといってもクライマックスは、伝説の「ベンジャミン伊東」の電線音頭

 

東八郎さん扮するカマっぽい「踊りの師匠」が「生徒」のキャンディーズに稽古をつけていると、軍艦マーチに乗って“ベンジャミン伊東“と、キンキラキンの上着を着た司会の“小松与太八左衛門“が登場。

 

そしてコタツの上で、狂乱の「電線音頭」を全員で交代しながら歌い踊る…

「人の迷惑顧みず、やって来ました電線軍団!」は流行語になりました。

 

伊東さん曰く「電線音頭は、いろいろな事情からヤケクソで始めたギャグ」でしたが、小学生を中心に、爆発的な人気を博しました。

 

 

もともと生真面目で「引いたタイプ」の喜劇人だった伊東さんは40歳にして突如、何かが弾けて狂い咲き。当時、ご本人も「私は発狂したのか?」と悩んだそうです(笑)。

 

ちなみに電線マンのキャラクターデザインは石ノ森章太郎、振付担当は西条満。スーツアクターは当時番組のADだった森昌行(後のオフィス北野代表取締役社長)や秋山武史さんだったことは有名です。

 

しらけ鳥音頭

 

電線音頭に続くこの番組からのヒットが「しらけ鳥音頭」

 

小松政夫さん演じる政太郎が「しらけ鳥」のパペットを右手に装着、コタツの上に立って、「し~~らけど~り~~」と歌い出すと画面がモノクロに。

 

これが当時の小学生にバカウケとなり、レコードが発売されるや60万枚(一説では80万枚)の大ヒットとなりました。

 

 

ちなみに、しらけ鳥人形は「8時だョ!全員集合」の美術で有名な、山田満郎さん作。確かに後の志村けんさんの「カラスなぜなくの、カラスの勝手でしょ」のカラスと似てますね。

 

人気に火がつくとしらけ鳥の着ぐるみが登場したり、遂には巨大化したしらけ鳥が街を破壊しながら踊る「怪鳥!しらけ鳥」という特撮コーナーまでありました。

 


 

こうして瞬間的に爆発的な人気を誇ったこの番組でしたが、1978年4月、メイン出演者だったキャンディーズが解散のため降板すると武田鉄矢、西田敏行を前面に押し出し「みごろ!ゴロゴロ!大放送!!」にリニューアル

 

1979年3月をもって終了となりました。

 

こうして振り返ると、伊東四朗&小松政夫のお2人が文字通り「お茶の間を席巻」したのは僅か2年くらいの短い期間だったのですね。

 

しかし、あの「狂気に溢れたバカ騒ぎ」のインパクトは大。それだけに、同世代と昭和のTVとお笑いを語ると、必ずこの番組が話題に上るのです。

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